求道者たち

vol.01

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

リスクと向き合う(1)東京海上ホールディングス  永野毅氏

「自分の国さえよければ」が横行し、グローバル化したリスクと向き合う態勢が整わない、と永野毅・東京海上ホールディングス会長は指摘する。リスクに対応するために、高度なテクノロジーを「力」とするには、何が必要か。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

居心地の悪い所へ行け

― 先ほど、アジアの学生たちは、故郷への貢献や、お父さんお母さんのために働くと口にするけれども、日本の学生たちはそうではないとおっしゃいました。なぜ、日本の学生たちがそうなのかとお考えですか。

永野 日本の若い人たちが劣っているという問題ではないでしょう。むしろ、教育レベルは非常に高いと思っています。ただ、その教育レベルや知識を何に生かすのかという目的を理解していないのですよ。
 例えば、子どものころにひどい貧困生活をしたとか、自分の周囲の環境が破壊されたとか、一方、母親を楽にさせてあげたいとか、社会全体をよくしたいとか、そういう経験や思いがあれば行動に出るでしょう。ところがいまは平和ですから、学んだことを何に使うのかと言われても、いい会社に入る、いい大学に入る、試験でいい点数を取るぐらいのことしか思い浮かばないかもしれません。世の中の役に立ちたいとか、ここを改善したいとかいうパッションにつながらないのです。
 パッションのレベルが低い。だから、社会に出て会社で働いて、その仕事をよくしていこうとか、会社と社会とのつながりを変えていこうとかいうパッションにつながらない。会社というのは、それぞれ目的があって事業が成り立っているんです。
 そういう社会の現実であるとすると、社員をいくらレベルアップしようとしても難しい。うちだけいい人が来るわけがない。社会のレベルがそうであれば、会社のレベルも推して知るべしとなるわけです。ですから、中学生、高校生の頃から、そうした問題への気づきの場をたくさん持ってほしい。もっともっとアジアや欧米の人と交流をして、自分たちの社会は決して普通ではないと知ってほしい。自分たちの生きている環境が「当たり前」ではないのだと。別の経験をしている人、困っている人たちが世の中にはいるんだという強烈な気づきを、できるだけ若い頃に持つことで、変化を起こす力を身につけていける。そこが大事だと思います。
 そうすると、大学で学ぶときにも、自分は何のために数学がやりたいのか、倫理や物理がやりたいのかと目的意識が芽生えてくる。俄然、学問が面白くなると思います。学問のための学問をやって偉くなっている人を尊敬はしますが、僕には絶対できない。目的がないからやる気が出てこない、遊ぶしかないです。
 たとえば平和な地球をつくるという目的があれば、研究が楽しくて楽しくてしようがなくなり、それがノーベル賞につながる——というのなら分かりますが、ただノーベル賞を取るための研究、それはあり得ないと思います。
 やはり、社会全体として取り組む必要がある。誰がやるべきなのか。政治はもちろんですが、気づいている民間人たちも、やはり行動を起こすしかないじゃないですか。
 ダボス会議をはじめ、民間レベルでいろいろな交流している限りにおいては最悪の事態は防げます。とにかく気づいている人たちが動くしかないと思います。そういう意味においては、教育が一番大事な大本であることは間違いないです。

曄道 教育の現場にいる者として、責任の重さを改めて感じます。いま会長がおっしゃったように、「平和」はありがたいことですが、居心地のいい場所にパッションが生まれにくいのも、誰もが理解できるでしょう。例えばスポーツをとっても、何とか上に上りたいというパッションが弱いチームをガラッと変えたという話は、いくらでも転がっています。
 今の日本社会は平和であり、特に若い学生たちは不満を持つ場が乏しい。敷かれた社会のレールで生きている。私はよく学生に「居心地の悪い所に行きなさい」と言っています。「自分の反対側に行きなさい」と。「今日は何を食べよう」なんてことを考える余裕すらない場に身を置いてみるとか。そういった経験を高校、大学の中でさせるべきです。それも、単に視察して、「ああ大変な人たちがいるんだ」ということだけでなく、「これを解決するために何ができるか」と解決策を自分の学んでいる何かから引っ張ってこられるような。そういう教育の機会を提供しなければと思います。

永野 そうですね。多様性のある社会、多様性のある学びの場を教室だけじゃなく作っていくのが大人の仕事だと思うし、そのためには日本そのものを、もっと多様性を包み込む場にしていかなきゃいけない。東京は比較的多様な人たちが集まる場ではあるけれども、海外に行ったらもっと多様性のある経験ができるわけです。
 僕は固定概念が生まれる前に、若い人たちをもっと外に出したらいいと思う。海外の人たちをもっと大学、高校も受け入れて、自然に学び合う環境をつくることは大事じゃないかと考えます。

良い会社・良い大学

― 社長就任以来、「良い会社を創りたい」と明言していました。「良い会社」とはどういう会社ですか。

永野 「Good Company」と言っています。私の名刺をご覧いただけますか。「To Be a Good Company」と書いてあります。良い会社を目指そう、どんな時代でも、どこにいても、常に我々はさらに良い会社をつくっていくという思いを込めています。「もう良い会社になっている」と我々が思ったら、それで終わり、成長はない。100年後も「To Be a Good Company」で行こう。そういうことです。
 先輩たちが培った経営理念だとか、我々の持つCorporate Identity、今までやってきた140年ぐらいの歴史の中でやってきたことを一言でまとめると、Good Companyだということです。
 Good Companyというのは、別に時価総額が高いとか、利益を上げているとか、そういう会社のことではなく、Morally Good、道徳的に良い会社のことです。それは社員がやりがいをもって、いきいき働かないことには絶対に生まれません。つまり、常に社員のやりがい、生きがいが起点になり、結果として持続的な成長を果たしている会社です。
 その中で一番大事なのは、目的だと思っています。目的意識を常に持つということです。我々の目的は何かと言うと、実は利益じゃないです。何かを成し遂げたいという思いで事業を起こしているわけです。
 日本に何百もの会社をつくった渋沢栄一さんは、経済と道徳は合一だと言っています。会社はお金を儲けて稼ぎ、稼いだお金で社会に貢献しなさいと言っているのではありません。会社は社会の課題を解決する中で持続的な成長を果たしていきなさいと言っているのです。少なくとも僕は、そう理解しています。
 これが会社の目的。社会の課題を解決するのが我々の仕事です。損害保険業で言えば、安心・安全を提供するということです。社会でいざ何かあったときに、たとえば富士山が爆発した、地震が起きた、台風が来た、自動車事故に巻き込まれた、病気になった…そんなときに、困らないようにして差し上げる。社会のいざというときに、安心、安全をもたらすことができる。これが我々の事業の目的です。
 この目的に従い、社会の課題を解決する中で、持続的に我々が成長できる。結果としてお客さんの信頼をそこで勝ち取れば、お客さんの支持につながり、利益という果実をもたらすわけです。利益を追いかけているわけではなくて、たまたまの結果です。この結果を活用して、また次に、新しく世の中の人たちのため生きる仕事を拡大していく、この繰り返しです。

― 利益は「たまたまの結果」ですか。

永野 そう、もっと分かりやすく言うと、「Profit is like air」、利益は空気のようなものなのです。人は空気がないと生きていけない。死んでしまいます。だけど人は空気を吸うために生きているわけじゃない。
 企業にとっての利益は空気です。利益がなくなれば企業は生きていくことはできません。しかし、利益を得るために企業は生きているわけではないんですね。
 自分の仕事というのは必ず会社の目的につながっている。その目的が理解できれば、自分の仕事に今までよりもやりがいが出てくる。今までは非常に小さな部門の利益、組織の目標を追いかけていたけれど、そうではなくて、究極的には会社の目的につながっていた。そう思うともっと自分の仕事が楽しくなるし、やりがいも出てくる。こういうサイクルを回すことが、「働き方改革」ではなくて「働きがい改革」につながってくるんですね。
 働きがいのある社会をつくっていかないと、日本はよくならないですね。そのためには学生も企業人も、目的をもっと意識していくということがとても大事だと思います。

― そうなると、大学のありようがますます問われますね。

曄道 大学、とくに私立大学はミッションが中心にあり、そのミッションに基づいた教育・研究が生まれ、育っていく。上智大学では、教育の精神において「他者のために、他者とともに」という言葉を使っています。
 今、会長が語られた企業としての目的、心に強く響きました。学生たちは大学で学び、そして力をつけていきます。我々は、そこで得た力、能力を他者に還元をしなさいと言っているんですね。社会に対して何ができるかということを。会長のお話で、「企業」を「個人」に置き換えて、我々は人を育てているのだととらえ直しました。
 目的は何かを見つける場が大学ということです。教育制度の最終段階としての大学に、それが求められているわけです。先ほどのお話のように、学生たちが世界を見てくる、自分と違う立場に寄り添ってみるといった経験の中で、社会の中でこういう役割を果たせるんだと実感してもらいたい。
 試験で高い点数を取るために大学で学んでいるのではない。自分が身につけたものを、どう他者に対して、社会に対して還元できるかを常に意識する人を育てられる環境、それが「良い大学」のトップに至る条件ではないかと思います。

永野 今、学長がおっしゃった上智大学のミッションは、学生の見えるところに掲げてあるんですか。

曄道 はい、ありとあらゆるところに。「for Others, with Others」という言葉は、イエズス会が母体となっている全世界の80大学で、あちこちに掲げられています。私も式辞などで必ずその言葉を入れて話します。

永野 日本の古典にある、例えば利他の精神とか、そういうことにも通じることですね。

曄道 キリスト教だから、カトリックだから、ということではないと思います。仏教の教えにも通じるのではないでしょうか。

永野 for Othersというのは全てに通じますね。社会に出たとき、まさに目的そのものですね。

― 社会に対する大きな観点では違いはないけれど、現実問題としては隔たりがありますね。社会を見よう、社会の課題を解決しようという点で、大学と企業との間に大きな齟齬はない。ところが、「大学は企業の望む人を育ててない」と企業側が主張すれば、大学は「企業は私たちが育てた人を生かしてくれない」と返す。どこかで食い違い、齟齬が起きているのかもしれません。

永野 先生方が大学のミッションを語ることが大切だと思います。例えば私の母校、慶應義塾では、福沢諭吉先生は慶應義塾の目的を明確に語っていますが、やはり教師陣が自分の言葉として学生に語ることが必要だと思っています。
 企業で言えば、役員がまずミッションを理解して、自分の言葉にして、やっぱり私はこう思うんだ、上はこう言っているけど、私はこう解釈している、と。それを聞いた人たちがまた次の人たちに自分の言葉として伝えていくことが、言葉の力としては実は強いのではないか。もっと目的を、上智の、会社の目的をそれぞれが語り合うことがとても大事じゃないかな。
 社是にいくら書いてあっても、銅像にいくら書いてあったとしても、それだけでは足りない。コミュニケーションが不足しているような気がしています。学校と企業の間も全く同じ、コミュニケーション不足ですよね。

曄道 ぜひ、それをつくりたいと思っています。

【ひとこと】 「働き方改革」ではなく「働きがい改革」とはなんだか愉快だ。一人ひとりが自分の生きがいの根底に「for Others」を据えて働く社会は、明るい夢を包み込む。次回は働きがい改革の現実、採用と人材育成について聞いていこう。(奈)