求道者たち

vol.02

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

「再構築の時代」が求める主体性(3)みずほフィナンシャルグループ会長  佐藤康博氏

データが世界を席巻する「無機質」な時代に、私たちは「長寿」を得た。そんな時代に、いやそんな時代だからこそ「相手の立場で考えられる人」が求められているのだという。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

相手の立場で考えられる人を求める

曄道グローバル人材の育成が大学に求められています。できていない、と厳しいご批判もいただいています。大学の対応の立ち遅れについて、私は反省すべきだと思っています。グローバル化とデータ駆動型社会とに、今、我々は直面しているわけですね。
 データには国境がないので、国境管理というものができない状態になっています。データ駆動型社会とは、倫理上の問題も含んだ社会のありようを一気に変えることになる。我々が、日本の社会が自覚しているよりも、もっと早いスピードで。私がやはり恐れるのは、その間、大学が何もできない、学生たちに何も提供できずに「変わってしまいました」とお手上げ状態で新しい時代を迎えるのではないかということです。大学の無力さへの危機感が非常に強いのです。

佐藤データライゼーション、データが国境を越えていく、無機質な社会の大幅な拡大という問題と、もう一つは、ロンジェベティ、100年超えて生きていくという時代が、もう来てしまっています。この2つに共通する問題として考えなければいけないのは、人間にとって、そういう時代の中で一番必要な資質は何かということです。
 リンダ・グラットンはその著書「人生100年時代」でその資質を「intangible assets」という言葉で表現していました。RPA(ロボティックプロセスオートメーション)の話にもかかわるんですけれども、ロボット化で対応できる業務を行なっていた人たちをどういうふうに再教育し、生きがいを与えてあげられるのかを考えなければいけません。それは生きた人間を相手にする仕事ができる人、相手に対するシンパシーを持てる人、あるいは自分の人生観を語れる人です。一言で言うと非常に抽象的な言い方にしかなり得ないんですけれども、人間味を持った人は、今後ますます必要になってきます。

― ロボット化が広がっている社会で求められるのは、人間味ですか。具体的には?

佐藤例えば、80歳のおばあさんが店頭に来て、ご自分のお金を運用したいとおっしゃっている場面を想像してください。手数料を稼ぐために、ブラジルレアルの可変性リスクを伴ったものを売ることもできるかもしれません。あるいは、本部が「◯◯を売れ」と指示してきた商品を売るということも。でも、本当にお客様との間で持続的な関係を構築するためには、やはりその人の生き方、人生観を聞き、これから何をしたいのか、何のためにお金が必要なのかということにもじっくり耳を傾け、ご納得をいただいたうえで商品を提供しなくてはいけない。金融機関だけではないと思いますけれども、そういう人間力がものすごく重要になってきています。AIが人に寄りそう力を手に入れる時代はいつかは来ると思いますが、しばらく時間がかかるでしょう。だからこそ、そういう人間力のある人を我々は求めているんですね。「みずほらしくない人に会いたい」というのが、今のみずほの人事採用のキャッチフレーズなのですよ。
 定番の「How to」もので生きてきた人は、テクノロジーで全部置きかえられてしまうでしょう。そういう状況になればなるほど、企業としては、人間の情感とか人生観とか感情といったものに触れられるような、人間味のある人たちの集団でありたいと考えるようになるはずです。だからこそ学生にも、そういう力を身につけてきてほしいと願っています。

曄道上智大学の教育モットーは「for others, with others(他者のために、他者とともに)」です。世界中のイエズス会系の大学が、この言葉を使っています。
 「for others ― 他者のために」という言葉は、学生の胸にはストンと落ちます。「他者のために」ですから、他者のために頑張ればいい。 ところが、他者のためになすべきことは何か、という話になるとそこに問題が生じるように感じるんですね。
 「他者のために」とは、必ずしもボランティアの話をしているわけではなくて、社会の中で自分が立ち位置を見つけたときに、「他者のためにとはどういうスピリットが必要なのか」を考えられることです。そのためには、社会的な構造についての理解が十分進んでいないと。でなければ、恐らくその人の気持ちに立つことはできません。

佐藤なるほど、そのとおりですね。

曄道そういったことは、これまで大学の中で体系的に教えられてこなかった。難しい経済学とか、そういうものは教えるんですけれども。

佐藤いや、そんなものはなかなかビジネスの世界では役に立たないことが多いです(笑)。自分も経済学部でしたけれども、大学生にももっとリアルな世界の構造をわかってもらいたいです。そういう学問ってあまりないですよね。

曄道そうです。もともと学問体系に乗っかっていないものは、大学の中に置き場所がないという状況が古くからあります。これは打破しないといけないと思ってます。そのためにつくったのが「プロフェッショナル・スタディーズ」です。社会人向けに、新しい講座群を来年度から始めます。少しだけ説明させてください。
 先ほどおっしゃった「リカレント教育」(2回目参照)は、社会人が職業上必要な知識を学ぶための再教育というのが、一般的な認識のようです。これだけ変化の激しい時代に、「職業上必要な」は範囲が狭すぎるのではないか。社会人が学び続け、創造的な智の発揮を行うこと、仕事や人生に対する自分の信念をさらに高めていくことが求められる時代ではないでしょうか。新しい事業展開へのヒントやイノベーションへの着想、あるいは自分自身の脱皮は、「職業上必要な学び」ではなく、継続的な、しかも日頃の自分や仕事とは離れた題材に触れる学びから湧き起こるものではないかと思うのです。上智に展開する社会人向けプログラム「プロフェッショナル・スタディーズ」は、この、発揮するための智の源泉の場となることを目指しています。

佐藤社会人向けですか。学生と社会人が、もっと対話できる場が必要だと思っていました。

曄道それこそが私たちの狙いです。社会と大学を結ぶ。その交点で社会人と学生が対話する、そういうイメージです。

佐藤それは学生にとっては、すごくいい経験になると思いますよ。我々のところに志望してくる学生は、何か社会に役立ちたいという価値観を持っている学生がたくさんいます。社会の役に立ちたいと思っている学生は数多くいますが、どうしたらそれが可能かわからない。
 私たちには例えば、開発途上国のプロジェクトファイナンスとか、社会的弱者に対するファイナンスとか、グリーンボンドのような環境を重視する企業に対するファイナンス、インパクトボンドのような社会的課題を解決するためのファイナンスなど、社会への貢献を重視した活動がたくさんあります。
 そういう話を、若い人たちに具体的に伝えると、「あっ、そういうことをやりたかったんですよ」という人がたくさん出てくる。そこで抽象から具体にようやく結びつくようです。
 だから、なるべく早い時期に、リアルな社会で何が起こっているのかというのを、学生に知ってもらうと、もっとインスパイアされると思いますね。

曄道今、その社会人講座の中で、注力しようとしているのがESG*です。環境課題に貢献している会社に投資を、といったような仕組み自体は理解しやすいでしょうが、それがどのように社会で実現されて、どう評価されているかといったような話は、大学教員だけでは学生たちに伝え切れてない。こうしたことに向き合っている人たちと学生とが机を並べ、学びの場なり議論の場なりにつくということを通して、学生たちに社会の現実や構造を理解してもらう。そして。社会がどっちの方向に向かっていて、そこで「他者のために」は何がどう発揮されるべきかということを感じてもらう。そういう場を提供したいと願っているのです。

*ESG 環境(Environment)、 社会(Social)、 Governance(企業統治)の頭文字を合わせた。投資や就職の際に企業を見る際の“ものさし”としての活用が広がっている。「E」は二酸化炭素削減、「S」は働き方改革、「G」は積極的な情報公開などが観点となる。

佐藤そうですね。インターンまで行くと「就職のため」となってしまうので、価値観が違ってきてしまいますね。
 私は若い社員とリーダーシップについての話をします。その時は自分の考えをまとめた「リーダーシップの10カ条」というメモを使います。その中の4番目は「intellectual curiosity」。簡単に言えば「知的好奇心」ということになりますが、私は“「部分」から「全体」を知ろうとする好奇心”と説明しています。例えば今朝見た新聞でフードロスの記事があったとします。その問題提起に共感するだけではなく、自ら実態を知ろうとし、その原因を探究し自分なりに解決策を考えてみる。そうすることによって、自然にグローバルで複合的な視座が備わってくる。こうした身近な疑問から入っていって、世界を俯瞰していく力を、学生、若い人たちに持ってほしい。それが、教育なのだろうと思うんですよね。
 だからこの4番目はいつも「すごく大事だ」と伝えています。部分ではなくて、全体を知りたいという力。

曄道うれしいお言葉です。

メガバンク初の兼業解禁幻想の終焉

― 「みずほ」が誕生して20年を迎えますね。どう振り返っていますか。金融機関が次々と経営破綻する激動の時代、苦難の末にここまできた。若い人の中にはそうした背景を知らない人も結構見受けられので。

佐藤小林さんは「敗北の時代」とおっしゃっていましたね。彼らしく、堂々と、正しいことを言っているなと思います。金融業界の場合も大きな荒波にさらされてきましたが、平成の時代は一言で言えば「再構築の時代」と総括できるのではないかと思います。
 再構築という意味は二つあります。2002年にみずほが誕生した頃は、銀行の数が都市銀行だけでも13行ありましたが、今は3行しかない。そういう意味では、金融だけではなく日本の産業全体が、大きく経済成長し、成熟化してきた後に、平成の時代に入り、それをリシャッフルする必要が出てきた。その結果、都市銀行は三つのメガバンクに集約されてきたわけで、正に「再構築」が実行された時代でした。
 もう一つは、主としてリーマンショック以降の動きですけれども、テクノロジーの進展が進んで、金融という定義そのものを再構築しなければいけなくなってきている。その意味においてもやはり平成は「再構築の時代」であったと言えると思います。平成全体を俯瞰すると、そういった二つの意味で、「再構築の時代」という言葉がふさわしいのではないでしょうか。
 ただ、敗北だったかどうかは、まだ答えは出ていないと考えます。最後まで戦わなければいけない、一丸となって。

― 再構築のなかで働き方も変わってきた。冒頭おっしゃったように、いくつかの選択肢から選ぶのではなくて、新しく自分でつくらなくてはいけない時代になった。新しい働き方も。
 こちらでは「兼業解禁」が報道されましたね。学生たちも驚いていました。

佐藤そうですね。ずいぶん評判になりました。人生100年時代とは言っても、70から75ぐらいまでは元気で働かないと100歳まで生きられません。けれども、その場合、一つの会社でずっと働き続けているという姿は想定しにくいと思います。
 本当に心配しているのは、老齢化した人々が仕事を見つけられず、貧困老人が町にあふれてしまう事態です。70歳、75歳まで元気で働くことができる社会を作っていく必要があります。
 定年制や終身雇用の問題も含めて、今までの日本の労働慣行は崩れるし、崩れざるを得ない。
 そうした状況、変化を踏まえて、新しい社員像を考えると、やはり人間力を身につけてintangible assets (無形資産)をふやしてもらい、どこへ行っても勝負できるような人間を育てていくことが極めて大事になる。そうでないと、変化の激しい、不透明感の高い社会の中で、彼らが幸せに人生を過ごしていくことができるとは、とても思えない。会社から与えられた仕事を淡々とこなしながら、ただ年を重ねてはいけば自然に昇進して給料が上がっていくなんていう時代は、もう絶対ないということです。そんな幻想の中に住んでいてはいけない。だからこそ、会社は彼らに様々な成長の機会と数多くの選択肢を提供できなければならないと思います。

― それで兼業解禁ですか。しかも労働組合と協議して兼業先や働き方を決めるという不思議な仕掛けですね。それも驚きました。組合はこういうとき社員を守るために組織と闘うものだと思っていましたから。

佐藤兼業は、そういう意味での機会ではあります。そのほかにも、例えば自分磨きのため2年間休んでもいいとか、そういう新しい制度をいくつか作って、一人一人が人間力を高めることができる機会にしたい。彼らが会社に戻ってきたとき、その人自身のバリューが上がっていて、それが人材力として金融機関にも必ずプラスになる。
 兼業でいろんな仕事を経験すると、そこで得た教訓を今度は金融業の中に生かしてもらえる。一人一人の行員が幅ができて人間力が高まれば高まるほど、私たちにもプラスが出てくる。
 そういう形で労働慣行を考えない限り、企業全体が沈んでいくだけだという強い問題意識があります。メガバンクでは初めてですが、それを認めようではないかと。
しかも、それは、若い従業員たちと議論して、彼らが何を求めているのか、どういう人生を送りたいのかという声も踏まえて考えられたものです。
 労働組合と協議して決めるのはすごく不思議だと言いますが、不思議ではありません。彼らと議論して、彼らが何を求めているのかということを理解して、その想いに応えていかなければ、みずほで働く意味とか働きがいとかにつながっていかない。そういう考え方の下で今度の制度をつくり上げているのです。

卒業後50年生きていく礎を、大学でどう築くか

― なるほど。そうすると、大学と企業との接点、採用も変わらざるを得ないですね。

佐藤大きく変わります。こちらからお願いしたいところですが、さっき申し上げたような企業と大学との関係をもっと近づけて、大学1、2年のころから、社会で何が起こっているかということに関して、企業側の情報と学生のニーズを組み合わせられるような、時間帯なりスケジュールをつくってほしいのです。
 そうなれば、ただのインターン制度ではなく、学生の方からの疑問に対して私たち企業側が答えるといったコミュニケーションがより密になってきます。相互理解がどんどん深まれば、お互いが十分に納得した形で就職先を決めることができるようになってくるんだろうと思います。

曄道それはぜひこちらからお願いしたいところです。学生たちにどんな学びの機会を与えるかが重要です。
 私たちは総合大学として学部や学科を持っています。ある1つの専門性を持ち、何を学ばなければならない。そして、それをどう応用し、最終的にどう課題解決に向かっていくかという一通りを知ってから卒業していく。そういう仕掛けになっています。
 ただ一方で、教養とは何か、しかも、何かを生み出す力を発揮できる教養とは何かということについて、学生たちは考えなければいけない。単なる蓄積ではなく、発揮するための教養とは何かを考えないといけないと考えるのです。
 では、発揮とは何か。彼らが社会に入っていって、先ほどの兼業の話もそうですけれども、次のステップにどんどん進んでいくために、ある1つの組織の中で発揮される何かかもしれない。次の組織に向かうために発揮される何かかもしれない。そうしたことを常に生み出していくような学びとは何かを、大学という時間の中でつくっていかなくてはいけない。
 さきほどおっしゃっていたように、70、75まで働くとなると、卒業後40年、50年生きていく基盤を、わずか4年間で大学はどう整えるか、そこを考えなければならないわけです。
 さっき申し上げた「専門軸」もつくりつつ――専門軸をつくるという意味は、専門性を持って仕事をするための軸をつくるという意味ですが、それをつくりつつ、創造性のある教養とは何かという点に思いを巡らせて学業のあり方を再配置、再構築しようとすると、非常に大きなエネルギーが必要になります。
 そのエネルギーがどこから生まれてくるかというと、やはり社会からの期待だと思うのです。社会からの期待が期待となる前には、評価というプロセスを経験しなくてはいけない。大学に何が足りてないのかということを、社会との議論の中で我々は模索していかなければなりません。
 こういう形でお時間をいただいている理由の一つには、お考えを通して「大学教育に抜けている視点」を知りたいということもあります。こうした対話が、実社会、実業界と大学との裃を脱いだ議論の端緒になればといいなと、強く願っています。

佐藤アメリカの大学との比較で見ても、日本の大学における学生の評価制度はすごくオールドファッションだと思っています。上智大学では既にやっておられるかもしれませんけれども、ボランティアでどういう活動をしたのかをきちんと評価してあげるとか、あるいは、実業界と触れる場をセットし、そこで受けたレッスンに対して評価してあげるとか。学生も人間ですから、何をもって評価されているのかということを見ていますので、学生への評価制度を社会の要請に合わせて大胆に変えていく、といった試みにも意を用いて欲しいと思います。
 それから、もう一つは、大学ではありませんが、こんな教育があったらいいな、という思う例をご紹介します。私はある育英財団の評議員をやっています。この財団は、日本の異能を発掘し、その才能を開花させる手助けをしようという目的で設立されました。この活動に携わることによって知ったのは、日本にも驚くべき異能が数多く存在することです。そしてまた、彼ら彼女らが今の社会、教育制度の中で、その才能を十分開花できていないことも知りました。要するに、余りにも特異な才能で、日本の教育の中からキックアウトされてしまうのですね。
 大学も含め、日本の教育は異才の人たちを拾い上げていくことがものすごく不得意です。これからの不透明な時代の中、何が正しい生き方なのか、はっきり言って大人もわからないわけです。大学は学生の自由な発想を尊重し、もっと異なる個性を開放してやることに力を注ぐべきだろうと思います。
 ぜひ、これからの大学にはそういう目線を、学生の評価という意味でも持っていただきたい。答案用紙を白紙で出してきたら、その覚悟を評価するぐらいの多様な評価体系があってもいいのではないでしょうか。

【ひとこと】「企業は『とがった学生がほしい』と言うけれど、とがったヤツほど内定が取れない」。ある国立大学の学長の嘆きを、ふと思い出した。周囲と同じリクルートスーツを無難に着こなし、とりたてて個性を強調しない「普通の学生」ばかりが内定を得てくるのだという。こうした話は決して珍しくない。企業は本当に「個性」を求めているのだろうか。求めているとしたら、それはどんなものなのだろうか。(奈)