求道者たち

vol.01

 道はあるか。どこにあるか ー理念を追い求め、社会が、国が進むべき道を模索し続ける人たちがいる。時に周囲から厳しく批判され頓挫しながらも、常に高くアンテナを張り、書を片手に実世界に学ぶ姿勢は、現代の求道者とたたえても過言ではないだろう。

「再構築の時代」が求める主体性(1)みずほフィナンシャルグループ会長  佐藤康博氏

1990年にバブルが崩壊し、企業の合併再編が一気に進んだ。その中で誕生した金融界の雄が「みずほ」だった。みずほフィナンシャルグループを率いる佐藤康博会長は、そんな平成を「再構築の時代」と振り返る。一方で、「再構築」はまだ終わっていないとも。新しく始まった令和の時代は何をどう再構築し、私たちに何を求めてくるのだろうか。
モデレーター 松本美奈(上智大学特任教授)

さとう・やすひろ

みずほフィナンシャルグループ会長
1952年 東京生まれ
1970年〜学生時代
・高校時代に「唯物史観」に感化され、経済学部を選択
大学4年卒業時、マスコミ入社を決めるが、直前で翻意
1年間経営学科に学士入学し、卒業後、日本興業銀行に入行
1983年〜1988年
・ニューヨーク勤務 1993年〜1997年
・頭取秘書
営業:企画 50:50 国内:海外 50:50の銀行員生活を送る
2002年
・三行統合の対応で忙殺 2009年
・みずほコーポレート銀行頭取就任後、企業カルチャーの改革に取り組む 2011年
・みずほフィナンシャルグループ社長就任後、グループ戦略(One MIZUHO)を打ち出し、銀行・証券・信託のグループ会社の融合に注力 2016年
・みずほフィナンシャルグループ会長就任
愛読書:村上春樹、浅田次郎、大崎善生の作品

おすすめの書「21Lessons」(ユヴァル・ノア・ハラリ)、「ビッグ・クエスチョン」(スティーヴン・ホーキング)、「China 2049」(マイケル・ピルズベリー)

知らないうちに持っていかれる

― 小林喜光・三菱ケミカルホールディングス会長のご紹介で参上しました。「佐藤さんとは大変フェーズが合う。時代感覚が合う」とうかがっています。

佐藤小林さんのご紹介では、逆らえません(笑)。付き合いが長いし、確かにウマが合う。彼も変わっていて、イスラエルやイタリアに留学し、研究者でありながら、企業社会と斬り結んできた。会社の盛衰、苦しいところから立ち上げてきているというご経験もある。人生観そのものが、非常に似ているところがあります。

曄道私がウマが合う存在かどうかもわからぬままに、こういう形でお邪魔しています。
まず、この企画の意図を説明させてください。私たちは、学生たちを社会に送り出す立場におります。そこで見ていると、学生たちは自分で自分の環境を選ぶ、道を自分で選ぶ、切り開くという思いを持てない。あるいは、表に出せないでいる。そこに、刺激を与えていきたいのです。学生たちの選べない、表に出せない原因の一つは、今の日本が非常に居心地がいいこともあるでしょう。ただ、居心地の良さに学生たちの世代がどっぷり漬かっていると、日本、ひいては世界の停滞感につながるのではないかと懸念しております。

佐藤まさにそういう認識が非常に大事です。決定的に違う時代に突入しようとしているということですから、何か「ある」ものを選択するのではなくて、“自分でつくり上げていかないと間違いなく人生そのものが大きく毀損されていく”というぐらいの危機感を持っていないと、個人だけじゃなくて、社会そのものが壊れていってしまう、ということだと思いますね。

曄道 そうおっしゃっていただくとありがたいです。そういう意味では遅れが出始めているような気がしています。
そもそも、今の学生たちは、自分自身で道を切り開こうとしていない。そうした状況下で「自分で何かを創造する時代ですよ」と伝えたとしても、「では、私は何をつくればいいでしょう」と教えてもらおうとする。「自分でつくるものは何か」から考えなければいけない時代のはずなのに。
手前みそですが、本学には優秀な学生が多いと思います。私たちの世代よりもはるかに勉強する機運が高まっているけれども、では彼らが社会に出て何に挑戦しようと考えているかというと、ちょっと…。そのスケールが我々のほうから見てもわかってしまうと感じています。

佐藤 学生だけではなく、若い人たちに何を学ばせればいいのか、どう生きていけばいいのか、ということを、自信を持って答えられるという大人が、もはや存在しないのかもしれません。
よく、アントレプレナーとか起業家精神とかということを言いますけれども、会社を興してお金をもうけるのが人生の目的なのかというと、恐らく違う。
では何を求めるのか。自由民主主義そのものが本当に持続性があるのか、ということが根っこから問われている時代の中で、子どもたち次世代に、何をあなたは目指しなさい、何を求めなさいと言うのかを、自信を持って言えることができなくなりつつあるのだと思います。私たちはそれほど不連続な時代に向かっているのでしょう。
大人の世界が混乱しているからなのでしょうが、「こっちに来なさいよ、これがいい道ですよ」と言えなくなっているし、むしろ言わないほうがいい。
では彼らにどういうメッセージを出せばいいのか。これは、大学としても、あるいは、一社会人としても真剣に考えないといけない課題です。極めて難しい時代だと思います。

― 今のご発言には、会長ご自身の歴史観がありそうですね。今をどういう時代と認識されていらっしゃるのでしょうか。

佐藤 大きな歴史観で見ると、今は恐らく500年に一度ぐらいの大きな変動期にある。人類史的に言っても、いまだかつて起こったことがないぐらいの激動の時代に突入しようとしていると考えています。
ある意味では、地政学的な変化と圧倒的なテクノロジーの進歩という、この二つの大きな構造変化が、世の中を根こそぎ変えようとしている。そういう時代に我々は立っているんだということを、まず最初に、きちんと認識しないといけないのだと思います。
若い人にそういう危機感を持ってもらうのは、実はすごく難しい。特に日本の場合には、基本的生活は満たされていて、スマホひとつあれば毎日いくらでも楽しめる。
ところが、こうした日常の先に巨大なリスクが隠されているということを、若者にきちんと伝えていかなければいけない。それが、特に日本の社会においては欠けている面であろうと思いますね。

― そのリスクとは何ですか。

佐藤 今日ご紹介したい本を3冊持ってきました。今のご質問には、そのうちの1冊「21 Lessons—21世紀の人類のための21の思考」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)が答えてくれるかもしれません。こんなことが書いてあります。電車に乗ると若者の90%がスマホをいじっていて、毎日おもしろおかしい漫画を見たり猫の動画を見たりしているわけですが、彼らのそうしたデータは全部クラウドで吸い上げられていて、Googleなどのいわゆるプラットフォーマーに吸い上げられているわけです。
実は私も、中国語を勉強しようと思って、スマホでいろんなことを検索していたことがありますが、ある日突然「あなたにとって一番いい中国語の辞書はこれです」という広告が私のスマホに入ってくる。これは、自分の個性とか人生の選択みたいなことがデータを支配している人間から規定されてくる、ということであって、やや大げさに言えば、自己の喪失ということになってくる。まさに曄道先生がおっしゃったような、生きる目的、あるいは価値観そのものを人に決めてもらうという世界になりつつあるということではないか。しかも、そうだという自覚もなくそうなってしまうところが怖い世界だと思います。私たちは今やそういうリスクにさらされている世界に住んでいるのです。

― 「自己の喪失」……支配されていることも自覚していない。

佐藤 「あなたは黄色が好きですね」と言われれば、「ああ、そうだったのか、自分は黄色が好きなんだ」となってしまう。一種の「自己の喪失」であり、「人生の目的の喪失」ということになるということです。利便性とか、面白さやおかしさだけを追求していった先にある世界が何なのかということを想像する力がなければ、自分の人生を主体的に構築していくことはできない。そういう時代になったということです。例えば職業の選択において、そうした新しいテクノロジーが社会にどんな決定的な変化をもたらすのか、その変化を誰がどのように利用しようとしているのかを知ろうとしないと、自分の人生をとんでもない世界に持っていかれることになる。
医療の世界もそうですね。先ほどのハラリの著書にも出てきますが、これからは生化学的な分析が非常に進んで、人体だけではなくてメンタル構造も相当解明されることになると思います。問題なのは、がん治療薬などでもかなり研究が進んでいますが、どれも高価なんですね。一発300万円とか、3,000万円とか。そうなると、富める者が120歳まで生きて、貧しい者は60歳で寿命を終えざるをえない、貧富の格差を超えた生命の格差みたいなところまで格差が拡大してしまう危険性があるということです。
そういう格差に対して、若い人がどう見るのか。自分たちは、そうした現実のどこに位置するのかというようなことを考えていかないと、自分の将来の幸せとか、あるいは人生でなすべきこととかを規定しにくくなっている。人体だけでなく、人間のメンタルな構造も解析が進み、感情さえもコントロール可能な時代さえ遠くない将来に迫っているのだと思います。
知らないうちに自分が想定できなかった世界に持っていかれてしまうということが、いろんな局面において起こっているということを、若いうちからきちっとわかっていてほしいのです。

自分の教養はスマホの中

曄道 本当にそれは強い共感を覚えます。今ご指摘の危機的な状況において大学の役割はどう変わるべきか、我々が直面している課題です。非常に根本的な問題です。
どういう学問を教えればいいかというスタンスでは、もうなくなっていると思っています。学問というのはかなり成熟もしてきているし、大学の中で、例えば、経済学、何々学といったら、一定の体系というものはつくられてきている。
それが日々…、いや日々というか年々、変化は多少はするかもしれないけれども、今、我々が教育機関として、自問自答すべきは、ご指摘のように学生たち自身が自分の価値観をどうやってつくれるのか、という点です。
先ほど引き合いに出されたのでスマホを例にしますと、今の若い人たちは、スマホの中に自分の教養が詰まっていると勘違いしているのではないかと懸念しています。入っているものは情報なのに、情報と教養の区別が非常につきにくくもなっているし、彼ら自身が区別できていない。
先ほどお話ししたような問題点の根底は、そこにあるわけですね。彼らの知的範囲がスマホの中に限定されていて、その中で、自分がどう立ち位置を見つけるかという話になっている。教養と情報の区別がついてないのではなくて、彼らの価値観が、その情報によってつくり上げられているという錯覚を、彼らは抱いている。つまり、それはもう、すなわち、社会の価値や価値観、もっと言うと倫理的な面も、そのスマホの中の情報によって決してしまう。何がいいのか悪いのか、自分がどうすべきなのかとか、そういったことが、「操作」という言葉が直ちには当てはまらないかもしれないけれども、自発的な創意、自分で何かをつくるという意識を、もはや彼らを取り巻く環境が許さないのかもしれない。となると、大学という場は何を果たすべきかということに帰結してしまう。20歳前後という非常に重要な年代を我々は預かっているので。ぜひその辺も、批判的に、今の大学に対するご意見をいただけるとありがたいです。大学は今のままでいいわけはない。強くそう思っています。

佐藤 情報と教養の区別というのは、極めて重要な定義づけだと思いますね。おっしゃるとおり、それを超えて、自己とか自分自身といったものを、誰が規定しているのかというところまで、イマジネーションを働かせていかなければいけないと思います。
学生にそういうことを教えるうえで何が一番効果的なのかと考えると、まず「歴史観」ではないでしょうか。自分の立ち位置をわかるためには、土台になっている時代背景とか、長い歴史のなかで、未来までを見通した上で、今どこに立っているのかという、そういう大きな歴史観です。加えて360度ぐるっと見回せるような感覚を、学生には持ってもらいたい。そのためには日本だけ見ていては全くだめで、先進国だけ見ていても、もはやだめです。例えば、中国の存在をどう考えるのかということは、自分たちの将来に直結しますよね。
中国という国はよくわからない、と言っているだけでは全く済まない。彼らが大人になるころには、世界の覇者は、アメリカではなくて中国になっているかもしれないのですから。そのときの「覇者」という意味は、経済大国という意味をはるかに超えて、まさしく覇者になる。価値観も含めて、ですから。「自由民主主義というものよりも国家資本主義のほうが意思決定も早く、効率的であることが証明された」「アメリカがトップだった時代もあったな」となるのかもしれない。「自由とか民主主義って、あんなものに浮かれてたのね」という日が来てもおかしくないような時代になっているのです。
香港で、あれほど自由や民主主義に対して命をかけて立ち向かっている人々と、日本の学生とを比べると、全く認識が違います。日本の学生は、そういう危機にさらされてないがゆえに、日本で現在当たり前のように存在する価値観を根こそぎ持っていかれてしまうかもしれないというリスクを、自分自身の人生の問題として考えられるだけの想像力を持つことは難しいのかもしれません。そうした危機意識は、私は歴史観やグローバルな視点から見た日本の立ち位置という見方の中から生まれてくるのだろうと思っています。経済学を学ぶのも、法学を学ぶのも、英語を学ぶのも大事なんですけれども、それは一つの手段でしかない。さっきおっしゃった教養とか、世界観みたいなものをつくっていく訓練が全然できてないで、「How to」だけで社会に出ていくということは、相当怖いことですね。

【ひとこと】 バブル崩壊当時、「再構築」は世界でも並行して展開されていた。ベルリンの壁が崩れ、欧州は統合に動き出す。その後、欧米中心の世界観は、米国での同時多発テロなどをきっかけに一気に多極化していった。日本国内での再構築は、経済主導で行われてきたように見える。その結果が「知らないうちに持っていかれる」「自分の教養はスマホの中」だとしたら……。立場は異なっても、二人の危機感に大きな隔たりはない。新たな再構築の時代に、どのような処方箋を提示するのだろう。(奈)